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原爆ドームはもともと何だった?その歴史と背景を解説

原爆ドームはもともと何だった?その歴史と背景を解説

イメージ画像:旅行宿泊探訪記 作成

こんにちは。旅行宿泊探訪記、運営者の「TrekTide」です。

広島の平和記念公園に静かに佇む、原爆ドーム。その独特な姿は、一度見たら忘れられない強い印象を残しますよね。旅行で広島を訪れるたびに、あの姿に心を打たれつつも、原爆ドームがもともと何だったのか、その歴史について詳しく知らない方も多いのではないでしょうか。実は、あの建物には華やかだった頃の昔の名前があり、なぜ残っているのかという理由や、設計者が誰なのか、そして被爆当時の建物の中の様子など、知られざる物語がたくさん隠されています。世界遺産に登録された理由を知ると、また違った見方ができるかもしれません。

この記事では、広島のシンボルである原爆ドームが辿ってきた、知られざる過去から現在までの道のりを、一緒に旅するように紐解いていきたいと思います。

原爆(げんばく)ドーム|広島市公式ウェブサイト

この記事でわかること

  • 原爆ドームの建設当初の華やかな役割と名前
  • 奇跡的に倒壊を免れた驚きの理由
  • 保存か撤去かを巡る激しい議論の歴史
  • 世界遺産として未来へ伝えるメッセージ

原爆ドームはもともと何だった?その歴史

## 原爆ドームはもともと何だった?その歴史

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今では平和の象徴として世界中の人々に知られる原爆ドームですが、その始まりは全く異なる目的を持つ、とてもモダンで美しい建物でした。ここでは、被爆前の華やかな姿と、それが辿ってきた歴史を紐解いていきますね。

昔の名前は広島県物産陳列館

原爆ドームのもともとの名前は「広島県物産陳列館」といいます。なんだか少し堅い名前ですけど、その名の通り、広島県の特産品を展示・販売するための施設だったんですね。

今で言うアンテナショップや物産展のような役割を担っていて、広島の優れた産品を多くの人に知ってもらうための拠点でした。館内では物産品の展示だけでなく、さまざまな博覧会や美術展なども開催され、当時の人々にとっては文化的な交流の場として大変親しまれていたそうです。今とは全く違う、人々の笑顔と活気に満ちた賑やかな場所だったことを想像すると、少し不思議な気持ちになりますね。

 

いつ建てられた?大正時代の名建築

この建物が完成したのは、1915年(大正4年)のことです。第一次世界大戦の真っ只中という、まさに激動の時代ですね。

当時としては非常に珍しい、鉄骨の入ったレンガ造りの3階建て(一部5階建て)で、ヨーロッパ風のモダンなデザインが特徴でした。特に、中央の楕円形のドーム屋根はひときわ目を引き、川面に映るその美しい姿は、広島の新しい名所として多くの絵葉書にもなったそうです。当時の最先端技術とデザインが結集した、まさに大正時代を代表する名建築の一つだったと言えるでしょう。

原爆ドームの観光に

設計者はチェコ人のヤン・レツル氏

この美しい建物を設計したのは、チェコ出身の建築家、ヤン・レツル氏です。彼は日本の様々な場所で西洋建築を手がけましたが、この広島県物産陳列館は彼の代表作の一つとして知られています。

ヤン・レツル氏について

ヤン・レツル氏は、1907年に来日し、横浜や東京で活動したのち、広島に拠点を移しました。彼の設計する建物は、ヨーロッパの伝統的な様式に、当時流行していた新しい芸術様式(セセッション式)を取り入れた、独創的で優美なデザインが特徴でした。残念ながら、彼自身は原爆投下を見るずっと前、1925年にチェコで亡くなっています。自分が設計した建物が、このような形で歴史に残るとは夢にも思わなかったでしょうね…。

遠い異国の地で、これほどまでに人々の心に残る建築物を創り上げた彼の情熱を思うと、感慨深いものがあります。

原爆ドームの観光に

辿ってきた歴史と果たしてきた役割

「広島県物産陳列館」としてスタートしたこの建物は、時代と共にその名前と役割を変えていきました。

  • 1921年(大正10年): 「広島県立商品陳列所」に改称
  • 1933年(昭和8年): 「広島県産業奨励館」に改称

このように、広島の産業振興を担う重要な拠点としての役割を果たし続けてきました。しかし、戦争の色が濃くなるにつれて、その役割も大きく変わっていきます。第二次世界大戦中は、産業奨励館としての機能は停止され、内務省や広島県土木事務所などの行政機関の事務所として使われるようになったのです。

原爆ドームの観光に

被爆当時、建物の中はどうだったのか

そして、運命の日、1945年8月6日午前8時15分を迎えます。

原子爆弾は、この広島県産業奨励館の南東約160メートル、上空約600メートルの地点で炸裂しました。爆心地から至近距離にあったため、建物は凄まじい熱線と爆風に晒されます。当時、建物の中にいた内務省や県の職員など約30名は、全員が一瞬のうちに命を落としたとされています。

ついさっきまで日常業務を行っていた人々が、一瞬にして…そう考えると、言葉を失います。華やかだった建物は、この瞬間、悲劇の象徴へとその姿を変えてしまったのです。

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原爆ドームがもともと何だったかを知る背景

## 原爆ドームがもともと何だったかを知る背景

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物産陳列館としての華やかな過去を知ると、今度は「なぜ、あの建物だけがあの場所に残ったのか」「どうして保存されることになったのか」という、新たな疑問が湧いてきますよね。ここでは、被爆後の原爆ドームが辿った、もう一つの物語を見ていきましょう。

なぜ残った?奇跡的に倒壊を免れた理由

爆心地からわずか160メートルという距離にありながら、原爆ドームが全壊を免れたのは、いくつかの要因が偶然重なった「奇跡」だったと言われています。

原爆ドームが倒壊しなかった主な理由

  • 理由1:爆風の向き
    原子爆弾がほぼ真上で炸裂したため、建物は上から押しつぶされるような強い衝撃を受けました。もし横からの爆風を受けていたら、レンガの壁はひとたまりもなかったと考えられています。
  • 理由2:建物の構造
    窓が多いデザインだったため、爆風が建物の内部を吹き抜け、圧力を逃がす効果がありました。また、建物自体が頑丈な鉄骨レンガ造りであったこと、特に象徴的なドーム部分は銅板で覆われ、しっかりとした鉄骨の骨組みだったことも倒壊を免れた一因です。

これらの条件が一つでも欠けていたら、おそらく原爆ドームは跡形もなく消え去っていたかもしれません。そう思うと、その存在自体が本当に奇跡的なことなのだと感じますね。

保存か撤去か、その理由を巡る論争

戦後、骨組みだけが残った痛々しい姿の産業奨励館の残骸は、いつしか市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。しかし、その保存を巡っては、市民の間で意見が大きく二つに分かれ、長い間、激しい論争が続いたのです。

「見るたびに被爆当時の惨事を思い出して辛い。危険でもあるし、早く取り壊してほしい」という撤去を望む声。

一方で、「二度と過ちを繰り返さないために、悲劇の証人として後世に残すべきだ」という保存を望む声。

どちらの意見も、戦争を体験した方々の切実な思いであり、簡単には結論が出ませんでした。この論争に大きな転機をもたらしたのが、被爆者でもある一人の女子高校生、楮山ヒロ子(かじやま ひろこ)さんの日記でした。白血病で亡くなった彼女の日記に綴られた「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」という言葉が人々の心を動かし、保存運動が大きく広がっていきました。

そして1966年、広島市議会はついに原爆ドームの永久保存を決定します。多くの人々の葛藤と願いの末に、保存が決まったんですね。

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世界遺産に登録された本当の理由

原爆ドームは、1996年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。しかし、これは単に「歴史的な建造物だから」という理由ではありません。

登録にあたり、原爆ドームは「二度とこのような悲劇が繰り返されないように」という人類全体の平和を願う誓いの証、つまり「負の遺産」として評価されたのです。これは、アウシュヴィッツの強制収容所などと同様の、人類が犯した過ちを記憶し、未来への教訓とするための遺産という位置づけです。

美しいから、素晴らしいから登録されるだけが世界遺産ではない。人類の戒めとして、その価値が世界に認められた、非常に重要な意味を持つ登録だったのです。

原爆ドームの観光に

現在、原爆ドームの中に入れるのか

「一度でいいから、中に入ってみたい」そう思う方もいるかもしれませんね。ですが、結論から言うと、現在、原爆ドームの内部に一般の人が立ち入ることはできません。

内部への立ち入りが禁止されているのは、被爆から長い年月が経ち、建物の劣化が進んでいるためです。崩落の危険があり、安全を確保できないことが最大の理由です。そのため、定期的に専門家による調査や保存工事が行われ、これ以上崩壊が進まないように慎重な努力が続けられています。

私たちは外からその姿を静かに見つめ、歴史に思いを馳せることしかできませんが、それこそが今の私たちにできる敬意の表し方なのかもしれませんね。

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負の遺産として未来へ伝えるメッセージ

原爆ドームは、ただの被爆した建物ではありません。それは、言葉を発することなく、しかし何よりも雄弁に、核兵器の非人道性と平和の尊さを私たちに訴えかけてくる存在です。

その崩れかけた壁や、むき出しになった鉄骨は、一瞬にして日常が破壊されることの恐ろしさを物語っています。そして同時に、あらゆる困難を乗り越えてきた人々の、平和への強い願いの象徴でもあります。

私たちが広島を訪れ、このドームの前に立つこと。そして、その歴史に少しでも思いを馳せること。それ自体が、原爆ドームが発する未来へのメッセージを受け取り、次の世代へと繋いでいく、大切な行為になるのだと私は思います。

原爆ドームの観光に

まとめ:原爆ドームはもともと何だったか

今回は、原爆ドームがもともと何だったのか、その歴史と背景について見てきました。

もともとは「広島県物産陳列館」という、多くの人々で賑わう華やかな名建築でした。それが原子爆弾によって一瞬で姿を変え、しかし奇跡的に倒壊を免れ、戦後は保存か撤去かを巡る長い論争を経て、平和を希求する人々の思いによって守られてきました。

そして今、人類の過ちを繰り返さないための「負の遺産」として、世界に向けて静かに、しかし力強くメッセージを発し続けています。

次に広島を訪れる機会があれば、ぜひこの記事で知った歴史を少し思い出してみてください。目の前にある原爆ドームの姿が、また少し違って見えてくるかもしれませんね。

 

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