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延暦寺 不滅の法灯は消えた?歴史の真実を解説

延暦寺 不滅の法灯は消えた?歴史の真実を解説

イメージ画像:旅行宿泊探訪記 作成

こんにちは。旅行宿泊探訪記、運営者の「K」です。

比叡山延暦寺の象徴ともいえる「不滅の法灯」。1200年以上一度も消えたことがないと言われていますが、インターネットで調べてみると「延暦寺の不滅の法灯が消えた」という情報が出てきて、あれ?と思ったことはないでしょうか。その話は嘘なのか本当なのか、消えた理由が織田信長によるものだという話や、その後どうやって復活したのか、そして山形にある立石寺がなぜ関係しているのか、たくさんの疑問が湧いてきますよね。私もこの歴史の謎にとても興味を惹かれました。

天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]

この記事では、そんな「不滅の法灯」にまつわる歴史の真実を、旅行好きの目線から分かりやすく解説していきます。延暦寺を訪れる前に、この背景を知っておくと、旅が何倍も深くなるはずですよ。

この記事でわかること

  • 延暦寺の不滅の法灯が一度消えた歴史の真実
  • 織田信長の比叡山焼き討ちが理由だった背景
  • 山形の立石寺への分灯が復活の鍵となった経緯
  • 1200年以上続く法灯に込められた本当の意味

「延暦寺 不滅の法灯 消えた」は事実か?歴史の真実を解説

## 「延暦寺 不滅の法灯 消えた」は事実か?歴史の真実を解説

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「不滅」と名高い法灯が、実は一度消えてしまったという話。なんだか矛盾しているように聞こえますが、これには日本の歴史を揺るがした大きな出来事が関係していました。まずは、その真相から紐解いていきましょう。

不滅の法灯が消えたのは嘘?焼き討ちの真実

結論からお話しすると、「不滅の法灯」が一度消えたというのは事実です。

では、なぜ「不滅」と呼ばれているのでしょうか。それは、物理的に火が消えたという事実を超えた、深い意味が込められているからなんですね。

この歴史的な出来事が起こったのは、元亀2年(1571年)のこと。織田信長による「比叡山焼き討ち」によって、延暦寺の主要な建物はことごとく焼き払われてしまいました。もちろん、法灯が灯されていた根本中堂も例外ではなく、炎の中に消えてしまったのです。

消えた理由は織田信長の比叡山襲撃

法灯が消えてしまった直接的な理由は、織田信長軍による比叡山への襲撃でした。信長は、僧侶や女子供を含む数千人を斬り捨て、伽藍を徹底的に破壊したと伝えられています。

これほど大規模な焼き討ちの中で、一つの灯火を守り抜くことは不可能だったでしょう。1200年近く灯り続けてきた聖なる火も、この時ばかりは人間の争いによって、一度その光を失うことになったのです。歴史の非情さを感じますね。

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1200年以上続く法灯と最澄の願い

そもそもこの「不滅の法灯」は、延暦寺を開いた伝教大師・最澄が灯したものです。最澄は、身分に関係なく誰もが仏になれるという「法華経」の教えを広めようとしました。

その願いを込めて、根本中堂に薬師如来をご本尊として祀り、その宝前に御灯明を掲げたのが始まりです。そこには、こんな歌に込められた最澄の切なる願いがありました。

あきらけく後の仏の御世までも 光りつたへよ法のともしび

(現代語訳:この灯火が、遥か未来の仏の世までも光り輝き、仏の教えを伝え続けてくれますように)

この灯火は、単なる明かりではなく、仏の教えと平和な世界への願いを象徴する光だったのですね。

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信長はなぜ比叡山を焼き討ちにしたのか

では、なぜ信長はこれほどまでに神聖な場所を焼き払うという、思い切った行動に出たのでしょうか。主な理由として、当時の比叡山延暦寺が大きな力を持っていたことが挙げられます。

武装化し、権力を持った一大勢力

当時の延暦寺は、多くの僧兵を抱える武装勢力であり、俗世の権力争いにも大きな影響力を持っていました。信長が進める「天下布武」にとって、言うことを聞かない巨大な宗教勢力は、邪魔な存在だったのかもしれません。

敵対勢力を匿ったこと

直接的な引き金となったのは、信長と敵対していた浅井長政・朝倉義景の軍を比叡山が匿ったことだと言われています。再三の警告を無視した延暦寺に対し、信長は最終手段として武力行使を選んだ、というのが一般的な見方ですね。

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「不滅」に込められた本当の意味を考察

一度は消えてしまった法灯。それなのに、なぜ今も「不滅」と呼ばれ続けているのでしょうか。

私は、この「不滅」という言葉には、物理的に火が消えないこと以上に、最澄の教えや願い、そしてそれを受け継ごうとする人々の想いは決して消えない、という意味が込められているのだと思います。

一度は暴力によって消されてしまっても、その精神は死なず、必ず誰かが受け継いで再び灯す。その事実こそが、この法灯が「不滅」であることの何よりの証明ではないでしょうか。そう考えると、なんだかとても感動的ですよね。

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延暦寺の不滅の法灯が消えた後、いかにして復活したか

## 延暦寺の不滅の法灯が消えた後、いかにして復活したか

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信長の焼き討ちによって一度は消えてしまった法灯。しかし、その光は奇跡的に現代へと受け継がれています。ここからは、絶望の中から希望の光が再び灯されるまでの、感動的な復活の物語を追っていきましょう。

復活の鍵は山形県の立石寺(山寺)への分灯

比叡山の火が消えてしまったにも関わらず、なぜ復活できたのか。その答えは、遠く離れた山形県にある立石寺(りっしゃくじ)、通称「山寺」にありました。

実は、信長の焼き討ちが行われるずっと以前に、延暦寺の法灯は山寺に分灯されていたのです。これは本当に幸運なことでした。

山寺は、比叡山延暦寺の別院として、最澄の弟子である慈覚大師・円仁が開いたお寺です。深いつながりがあったからこそ、この奇跡が起こったんですね。

復活のキーポイント

  • 焼き討ち以前に、山形の立石寺(山寺)へ火が分けられていた(分灯)
  • 立石寺は延暦寺と深いつながりのあるお寺だった

立石寺から再び火を譲り受けた歴史

焼き討ちの後、荒廃した比叡山は、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人たちの支援によって、少しずつ復興していきます。そして、ついに根本中堂が再建された際、歴史的な瞬間が訪れます。

山寺に分灯されていた法灯を、再び比叡山へ戻すことになったのです。

故郷である比叡山へ、聖なる火が帰ってくる。「帰山」と呼ばれるこの出来事によって、最澄の願いの光は再び根本中堂に灯りました。もし山寺への分灯がなければ、1200年の伝統は完全に途絶えていたかもしれません。そう考えると、本当にすごいことですよね。

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なぜ消えない?菜種油で支える現在の法灯

復活を遂げた法灯は、今も根本中堂で静かに燃え続けています。では、どうやってその火を守り続けているのでしょうか。

その秘密は、毎日欠かさず行われる「御油注ぎ(ごゆつぎ)」にあります。僧侶の方々が、毎朝夕の2回、火が消えないように菜種油を注ぎ足しているのです。この作業は、1200年以上もの間、一日も休むことなく続けられています。

「油断」の語源?

うっかりミスをすることを「油断」と言いますが、その語源はこの法灯にあるという説があります。油を断つと火が消えてしまうことから、注意を怠るな、という意味で使われるようになったとか。真偽は定かではありませんが、面白い豆知識ですよね。

絶え間ない努力と祈りによって、この聖なる光は守られているのですね。

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法灯は根本中堂で今も見ることができる

この歴史の光は、延暦寺の中心的なお堂である「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」で、今も私たちを静かに迎えてくれます。

堂内に入ると、薄暗い空間の中に3つの灯籠が吊り下げられており、そこに「不滅の法灯」が安置されています。1200年以上も昔から受け継がれてきた光だと思うと、本当に感慨深いものがあります。その揺らめきを見つめていると、心が洗われるような、不思議な感覚になりますよ。

参拝時の注意点
根本中堂の堂内は、残念ながら撮影禁止となっています。この神聖な光は、写真ではなく、ぜひご自身の目で見て、心に焼き付けてくださいね。

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延暦寺 不滅の法灯 消えた歴史が伝える光

「不滅の法灯が一度消えた」という歴史は、一見すると残念な出来事かもしれません。しかし、私はむしろ、この「消えたけれど復活した」という物語こそが、法灯の価値を何倍にも高めているように感じます。

それは、どんな困難や暴力にも屈しない人間の強い意志や願いの象徴だからです。物理的な火は消えても、人々の心に灯る希望の光は決して消えない。不滅の法灯は、私たちにそんな大切なメッセージを伝えてくれているのかもしれませんね。

比叡山延暦寺を訪れる機会があれば、ぜひ根本中堂に足を運び、この1200年の時を超えてきた光を、その歴史とともに感じてみてください。きっと、忘れられない旅の思い出になるはずです。

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