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こんにちは。旅行宿泊探訪記、運営者の「K」です。
広島の平和記念公園に静かに佇む、原爆ドーム。その姿を目の前にすると、多くの人が言葉を失い、様々な思いを巡らせることでしょう。そして、多くの人が抱く素朴で、しかし非常に重要な疑問。それは、原爆ドームの中にいた人はどうなったのか、ということではないでしょうか。あの日、この建物の中にいた職員の方々の中に生存者はいたのか、それとも全員が即死だったのか。また、これほどの破壊力の中でなぜ残ったのかという奇跡のような理由、そして現在立ち入り禁止となっている内部はどのようになっているのか。この建物を手がけた設計者の物語とともに、その真実に迫りたいと思うのは自然なことだと思います。
この記事では、広島への旅行や平和学習を考えている方が抱くであろう、そうした疑問に一つひとつ丁寧にお答えしていきます。悲しい歴史の事実から目をそらさず、原爆ドームが私たちに何を伝えようとしているのかを一緒に考えていきましょう。
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この記事でわかること
- 原爆ドームの中にいた職員の方々の結末
- 建物が奇跡的に崩壊を免れた科学的な理由
- 被爆前の華やかだった建物の姿と設計者の物語
- 世界遺産として今に伝える平和へのメッセージ
原爆ドーム、中にいた人はどうなったかの結末

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まずは、多くの方が最も知りたいであろう結論からお話しします。あの日、原子爆弾が投下された瞬間、この建物の中にいた人々に何が起こったのか。そして、なぜこの建物だけがその姿を今に残しているのか、その背景を詳しく見ていきましょう。
広島県産業奨励館の職員に生存者はいたのか
結論からお伝えすると、1945年8月6日午前8時15分、当時「広島県産業奨励館」と呼ばれていたこの建物の中にいた約30名の職員や関係者の方々は、全員が亡くなられたと考えられています。
原子爆弾は建物の南東約160メートル、上空約600メートルの地点で炸裂しました。爆心地から至近距離にいたため、凄まじい熱線と爆風に一瞬で巻き込まれてしまったのです。
爆発の瞬間、内部にいた方々は0.2秒のうちに爆風を受け、1秒後にはほぼ全員が即死だったと言われています。あまりにも一瞬の出来事で、何が起こったのかを理解する時間すらなかったのかもしれません。この事実は、核兵器の非人道性を何よりも雄弁に物語っています。
唯一の被爆者
この日、館内で勤務するはずだった職員のうちの一人が、たまたま出勤が遅れたため被爆を免れた、という話が残っています。しかし、館内にいた方で助かった人はいなかった、というのが定説です。
原爆ドームはなぜ残った?奇跡的な理由
あれほどの破壊をもたらした原爆の爆心地近くにありながら、なぜ原爆ドームは全壊を免れたのでしょうか。それは、いくつかの条件が偶然重なった「奇跡」とも言える理由によるものでした。
理由1:爆心地の真下に近い位置だったから
原子爆弾は原爆ドームのほぼ真上(上空約600m)で爆発しました。そのため、建物が受けた衝撃は横からの爆風ではなく、ほぼ真上からの圧力でした。もし横から強烈な爆風を受けていれば、他の多くの建物と同じように一瞬で倒壊していたでしょう。真上からの圧力だったため、衝撃が建物を押し潰す方向にかかり、壁が奇跡的に残ったのです。
理由2:建物の構造
原爆ドームは当時としてはモダンな、レンガと鉄筋コンクリートで造られた頑丈な建物でした。特に、建物の中心にあるドーム部分は鉄骨の骨組みでできており、これが構造的な強度を保つ役割を果たしたと考えられています。また、窓が多かったことも、爆風が内部を吹き抜けやすくし、建物全体の倒壊を免れた一因とされています。
理由3:熱線を浴びたが、衝撃波で火災を免れた
爆発によって発生した熱線で建物は炎に包まれましたが、その直後に到達した衝撃波が火を吹き消す形となり、建物全体が燃え尽きるのを防いだ、という説もあります。いくつもの偶然が重なり合った結果、この建物は被爆の証人として現代にその姿を残すことになったのですね。
原爆ドームはいつ建てられた?被爆前の姿
今では平和の象徴として知られる原爆ドームですが、被爆前は広島の人々の自慢となる、とても美しい近代的な建物でした。
この建物が建てられたのは1915年(大正4年)。当初は「広島県物産陳列館」という名前で、広島の物産品を展示・販売するための施設でした。その後、「広島県立商品陳列所」「広島県産業奨励館」と名前を変え、美術展や博覧会なども開催される文化と産業の中心地として、多くの人々で賑わっていたそうです。
当時の写真を見ると、川面に映るヨーロッパ風の優雅な建物と、その周りを行き交う人々の活気が伝わってきます。この場所が、かつては人々の笑顔と未来への希望で満ち溢れていたことを思うと、胸が締め付けられるような気持ちになりますね。
原爆ドームを作った人はチェコ出身の建築家
この美しい建物を設計したのは、チェコ出身の建築家ヤン・レツル氏です。彼は20世紀初頭に日本で活躍し、原爆ドームのほかにも日本各地で西洋建築を手がけました。
彼の設計する建物は、曲線を多用した華やかで斬新なデザイン(セセッション式)が特徴で、「広島県物産陳列館」はその代表作の一つでした。レツル氏自身は原爆投下のずっと前、1923年に関東大震災をきっかけに日本を離れ、故郷のプラハに帰国しています。
彼が心を込めて設計した建物が、このような形で歴史の証人として残ることになるとは、夢にも思わなかったでしょう。彼の運命もまた、この建物の歴史を語る上で欠かせない物語の一部ですね。
命を奪った原爆の熱線は何度だったのか
原爆ドームの中にいた方々の命を奪った直接的な原因の一つが、強烈な熱線です。原子爆弾が炸裂した瞬間、その中心温度は100万℃以上にも達したと言われています。
爆心地周辺の地表面の温度は、3,000℃から4,000℃にまで達したと推定されています。これは鉄が溶ける温度(約1,500℃)をはるかに超える、想像を絶する高温です。この熱線に直接晒された人々は、全身に大火傷を負い、一瞬にして命を落としました。
データの取り扱いについて
ここで示している温度などの数値は、様々な研究に基づく推定値であり、資料によって多少の差異があります。あくまで核兵器の破壊力を示す一つの目安としてご理解ください。
この事実を知るだけでも、核兵器というものがどれほど非人道的な兵器であるかが痛いほど伝わってきます。
悲惨な歴史を今に伝える世界遺産としての価値
被爆後、一部では「見るのが辛いから取り壊すべきだ」という意見もありました。しかし、多くの市民の声に後押しされ、広島市は永久に保存することを決定します。
そして1996年、原爆ドームは「二度とこのような悲劇が繰り返されないように」という戒めを込めた「負の遺産」として、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
原爆ドームは、ただの被爆した建物ではありません。核兵器の恐ろしさと、平和の尊さを、声なくして世界中に訴えかけ続ける歴史の証人なのです。その静かな佇まいが、私たちに多くのことを問いかけているように感じられます。
原爆ドームで中にいた人はどうなったか、その真実

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ここまで、原爆ドームの歴史的な背景や、中にいた人々の結末について詳しく見てきました。ここでは、現在の原爆ドームに関する情報や、よく寄せられる質問について、もう少し掘り下げてみましょう。
現在の原爆ドーム内部と立入禁止の理由
現在、原爆ドームの内部は、一般の人の立ち入りが固く禁止されています。フェンスで囲われており、外からその姿を眺めることしかできません。
立ち入りが禁止されている主な理由は2つあります。
- 建物の崩壊リスク:被爆から長い年月が経ち、建物は風化が進んでいます。安全性を確保するため、定期的な保存工事が行われていますが、それでも内部に入るのは非常に危険な状態です。
- 慰霊の場として:前述の通り、この場所では多くの方が一瞬にして命を落としました。そのため、ここは単なる観光地ではなく、犠牲者の魂を慰める神聖な場所としての意味合いが強いのです。
私たちはフェンスの外から、静かに祈りを捧げ、歴史の重みを感じ取ることが求められます。
よくある質問:生存者は本当にいなかった?
この質問は非常によく聞かれますが、改めてお答えします。爆発の瞬間に「館内にいた」という条件であれば、残念ながら生存者はいませんでした。
爆心地からの距離、そして熱線と爆風の威力を考えれば、それは仕方のないことだったのかもしれません。この事実こそが、私たちが決して忘れてはならない、原爆の悲劇の核心部分です。
よくある質問:被爆前の建物の使われ方
被爆前の「広島県産業奨励館」は、広島の産業や文化の発信拠点として、非常に華やかで活気のある場所でした。広島県内の特産品を展示・販売したり、様々な博覧会や美術展の会場として利用されたりしていました。多くの人々が集い、笑い声が絶えない、広島市民の誇りの一つだったのです。
よくある質問:設計者ヤン・レツルとは
ヤン・レツル氏(Jan Letzel, 1880-1925)は、チェコ出身の建築家です。明治末期から大正時代にかけて日本で活躍し、原爆ドームのほか、いくつかの西洋建築を日本に残しました。彼は日本の伝統建築にも深い関心を持っていたと言われています。自分が設計した建物が、後世にこのような形で知られることになるとは、彼自身も想像していなかったことでしょう。
まとめ:原爆ドームと中にいた人はどうなったか
今回は、広島の原爆ドームと、あの日「中にいた人はどうなったのか」という疑問について掘り下げてきました。
この記事のポイント
- 1945年8月6日、館内にいた約30名の職員は全員が即死だったとされている。
- 建物が残ったのは、爆心地のほぼ真下だったことや、建物の構造など、複数の偶然が重なったため。
- 被爆前は「広島県産業奨励館」として多くの人で賑わう、華やかな文化と産業の拠点だった。
- 現在は「負の遺産」として世界遺産に登録され、核兵器の廃絶と平和の尊さを世界に訴えかけている。
原爆ドームを訪れるとき、ただその姿を眺めるだけでなく、その背景にある人々の物語や歴史に思いを馳せることで、見え方が大きく変わってくるはずです。中にいた方々の無念、そして平和への願い。そのすべてを静かに受け止め、未来に語り継いでいくことが、今を生きる私たちの責務なのかもしれませんね。
広島を訪れた際には、ぜひ平和記念公園に足を運び、ご自身の目で原爆ドームを見て、感じてみてください。